さて、先週から降り出した雪は止むことを知らず、当地では積雪が120cmとなっています。越後の国(現在の新潟県)では、ちょうど今の初雪の頃に「穴熊撃ち」と呼ばれる「クマの足跡と冬眠穴を探し出してクマを仕留める猟法」が行われていたようです。最近は何かと「鬼」の存在が注目されますが、今回はこの「初雪の頃のクマ撃ちと鬼婆」に関する哀しい伝説の考察です。
「弥三郎鬼婆(やさぶろうばさ・魚沼弁)」
昔んことだども、大崎の村に弥三郎てゆう若くて腕のいい熊撃ちがいたがんだと。弥三郎は何(なん)しろ腕が良(い)かったんなんが、山でいっぺ熊や兎を取ってたがんだと。美人の嫁さんと愛(めごい)赤と、婆様(ばさま)と楽に暮らしてたんだども、ある時、弥三郎が「今日は雪ん後で晴れたんなんが、熊撃ちん行って来るいや」て言って、山へ行ったがんだと。そしたら急に吹雪んなって、何日たっても弥三郎は山から帰って来なかったと。弥三郎が山で死んじまったてがんで、嫁さんは切ながって切ながって、後を追って死んじまったと。家(うち)には赤(あか)と婆様(ばさま)ばっかんなったども、村ん衆(しゅう)は「山で殺生してたんなんが罰(バチ)が当たったいや」でがんで、誰(ダイ)も赤(あか)に乳をやらんかったと。
弥三郎んとこの婆様(ばさま)はいよいよ自分のしなびた乳を赤(あか)にやらんだども、乳なん出ねんだんが、赤(あか)は腹が減ったてがんで、わんわんわんわん毎日(まいんち)泣いったと。だども、その赤も段々弱ってきて、婆様(ばさま)は切ねえし、愛い(めごい)赤(あか)をあやしてる内(うち)ん、切なくて切なくて、とうとう自分家(じぶんち)の赤(あか)を「頭からムリンムリンと喰っちまった」と。ちょうど村ん衆(しょ)が「赤(あか)ん声もしねえし、弥三郎ん家(ち)が変だいや」てがんで家(うち)を見ん行ったら、婆様が赤(あか)を頭から喰ってたんなんが、吃驚(びいっくり)したがんだと。そしたら婆様は「わああああ」っていうこの世で聞いた事がねえ凄い声を出して「障子をバリンッ!バリンッ!と破って」吹雪ん中飛び出て行ったと。
弥三郎ん家(ち)の婆様は自分ん家(ち)の赤(あか)を喰っちまったんなんが、「鬼婆(おにばさ)」んなって、今でも長松の権現堂の岩穴に居(い)らんだと。そいで悪(わり)い子が居ると、八日吹雪ん夜に飛んで来て、権現堂の岩穴にさらっていかんだと。いっちがぼーんとさけた。
「弥三郎鬼婆(やさぶろうばさ・現代語訳)」
昔々、南魚沼郡の旧大崎村(越後駒ヶ岳や八海山の近く)に弥三郎という若くて腕の良い猟師がいた。弥三郎は何しろ鉄砲の腕が良かったので、山でたくさん熊や兎を撃つことが出来た。このため暮し向きは良く、美人のお嫁さんと生まれたばかりの可愛い赤ん坊、そして自分の老母(婆様)と楽しく暮らしていた。ある晴れた初冬の日、「今日は雪が降った後の晴天なので、熊の足跡が残るだろうから、山へ熊撃ちに行って来る」と言い、弥三郎は山へ出掛けていった。最初は晴天だったが、山は俄(にわ)かに大吹雪の荒天となり、その吹雪は何日も続いた。ついに弥三郎は山で遭難死してしまった。弥三郎の死を悲しんだ美人の妻も後を追って死んでしまった。弥三郎の家には生まれたばかりの赤ん坊と年老いた婆様だけが残されたが、「山で殺生していたから罰(バチ)が当たった」と言って、村人は誰も弥三郎の赤ん坊に母乳(貰い乳)を与えなかった。
弥三郎の婆様は困ってしまって、最後には自分のしなびた乳房を含ませるが、母乳が出る筈もなく、赤ん坊は空腹で毎日泣くばかりであった。そのうちその赤ん坊も栄養失調で衰弱してきた。弥三郎の婆様は弱ってゆく赤ん坊をあやしつつ、悲嘆に暮れ、とうとう赤ん坊を「頭からムリンムリンと食べてしまった」。村人が「赤ん坊の泣き声もしないし、弥三郎の家の様子がおかしい」という事で様子を見に行くと、そこでは何と弥三郎の婆様が自分の孫である赤ん坊を頭から食べていて、非常に驚いた。村人に気づいた弥三郎の婆様は、一旦正気に戻ったものの、自分が赤ん坊を食べてしまった業の深さから、「わああああ」というこの世で聞いた事が無い凄い声を出し、「家の障子をバリンッ!バリンッ!と破って」、真っ暗な吹雪の夜の闇に飛び出て行った。
弥三郎の婆様は自分の孫である赤ん坊を食べてしまったので、「鬼婆(おにばさ)」に化身し、今でも北魚沼郡旧広神村・長松地区の上権現堂山(標高997m)の岩穴に居る。そして親の言いつけを守らず、行儀の悪い子どもを見つけると、あの時と同じような八日吹雪の夜に飛んで来て、権現堂の岩穴にさらってゆき、行儀の悪い子どもは鬼婆に食べられてしまうのだそうだ。越後の国の昔話でした(※)。
子どもの頃に聞く「弥三郎鬼婆」の昔話は、それはそれは怖いお話で、特に「赤ん坊を頭からムリンムリンと食べてしまう婆様の描写」が妙にリアルで、昔の茅葺き民家の細い戸口から吹き込む吹雪とその不気味な風の音に「弥三郎鬼婆の存在」を確かに感じたものです。
この昔話は所謂「子どもへの戒め話」ではありますが、そのストーリーの成立を考えると、これは「実際に発生したツキノワグマによる人家襲撃事件」を題材としているようにも思えます。新潟県魚沼地方では「江戸時代にツキノワグマによって蕎麦畑が荒らされたり」「ニホンオオカミによって人家が襲撃された」という伝承があります。また越後三山に代表される奥山は当時もツキノワグマの生息域であり、積雪期にはツキノワグマを狩猟の対象としていました。
「熊撃ち猟師の不在」「吹雪の夜に人家でムリンムリンと赤ん坊を食べる鬼婆の行為」「この世で聞いた事が無い凄い声」「家の障子をバリンッ!バリンッ!と破る行動」「「権現堂の岩穴(冬眠穴)で暮らしている」などは、「鬼婆の姿」を纏(まと)ったツキノワグマの生態と行動を想起させます。
そして、この昔話のもうひとつのテーマは野生動物への殺生に関する当時の人々の深い洞察です。弥三郎は熊撃ちを生業とし、村人はこの恵み(毛皮や肉)を受け、また野生動物による作物被害防止を弥三郎が担っていたにも関わらず、弥三郎の死後は婆様を差別し、その結果村人には「行いの悪い村の子どもを、かつて自分達が差別した婆様の化身である鬼婆(人喰い熊?)にさらわれる因果」が生じています。「殺生を安易に断罪し、差別してはならない」という昔の人の戒めが、この弥三郎婆の物語のベースにあるのではないでしょうか。
(関連:宮沢賢治作「なめとこ山の熊」のお話はこちらです)
実は弥三郎鬼婆には続きのお話があり、自分の行いの罪深さに気づいた弥三郎鬼婆がお坊様に諭されて、最後に心を入れ換えるバージョンも存在します。長い冬の後に訪れる穏やかな春の日々のように、弥三郎鬼婆の魂も越後の山々のもとで救済されたのでしょうか。吹雪の夜に、そんな事を考えます。
<追記>
※弥三郎の嫁は死亡しておらず、家人の留守を預かった婆様が、玉のような孫の愛らしさに極まって「子守の最中、何を思ったのか、赤ん坊を頭からムリンムリンと食べてしまい」「家に帰ってきた嫁がその様子を発見し、鬼婆が出たと大騒ぎになる・・・」という「嫁・姑対決型の弥三郎鬼婆ストーリー」もあるようです。この場合、前半の弥三郎の遭難シーンは省略され、「悪い子になっていると吹雪の夜に弥三郎鬼婆が権現堂の岩穴から飛んでくる」というシンプルな説教話になります。
上権現堂山は魚沼盆地の各所から見上げる事の出来る目立つ山ですし、伝説に言われる「鬼婆の岩穴」も上権現堂山の山頂直下の露頭に実在しています。「赤ん坊を頭からムリンムリンと喰った」という「恐ろしい鬼婆の描写」は共通していますので、越後の国の魚沼地方においては「鬼婆の恐怖感を用いた教育的効果が高い、優れた民話(昔話)だった」のでしょう。